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多数派であることのリスクについて
2015年11月29日

2011年9月20日

「内田樹の研究室」より

多数派であることのリスクについて

神戸新聞に隔週で「随想」というコラムを書いている(これが二回目)。神戸新聞を読んでいない方のために再録しておく。 これは先週書いたもの。

 

 

橋下大阪府知事は、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示した。 首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするというのは異例の事態である。 公務員が遵守義務を負うのは、憲法と法律・条例と就業規則だけのはずである。

 

 

「大阪都」構想は、その当否は措いて、今のところ一政治家の私念に過ぎない。それへ賛否が公務員の将来的な考課事由になるということは法理的にありえまい。 まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。 私はこの手法に反対である。 脅迫や利益誘導によって政治的意見を操作してはならない。私はそう信じている。

 

 

それは強制された政治的意見は必ず間違っていると思うからではない。暴力的に強制されたのだが「内容的には正しい政策」というものは論理的には存在しうる。 私は政策の当否について論じているのではない。 「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。 歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。 後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。私が恐れるのはそのことである。 あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。 (ここまで)

 

 

私たちは「圧倒的多数が支持する政治的意見」は穏健で、「少数の支持者しかいない政治的意見」は過激であると考えがちだが、経験的にはそうではない。 私の知る限りでは、「圧倒的多数が支持する政治的意見」はしばしば実現不可能な空論を選好する。 それは「数を恃む」ということが、個人の責任を解除してしまうことによって起きる。

 

 

ある意見を掲げているのが自分ひとりである場合、自分がその意見を口にするのを止めてしまえば、もうその意見はこの世界に存在しなくなる。 私が語るのを止めたら、この世にそれを語る人が誰もいなくなる意見、私の説得が功を奏さなければ、そのまま宙に消えてしまう意見については、私たちは情理を尽くして語る。 逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。

 

 

 

うかつに断定的に語り出したり、聴き手を見下したり、恫喝したりして、「気分の悪い野郎だな」とふっと横を向かれ、耳をふさがれてしまっては、それで「おしまい」だからである。 それで「おしまい」にされないためには、とにかく一秒でも長く自分の話を聞いてもらわなければならない。 すがりつき、かきくどき、「とにかく話を聞いてくれ」という懇請によって相手の足を止め、しばらくの間「耳を貸して」もらわなくてはならない。 そのような語り手の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりするはずがない。

 

 

逆に言えば、その人の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったり「できる」のは、そのような不愉快な語り口に苛立った聴き手が聴く気を失っても「少しも困らない」からである。 聴き手が聴く気を失っても少しも困らない語り口を採用できる理由は二つある。 一つは「聴き手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。「私の話を聴いて支持してくれる人間はいくらでもいるから、お前は消えてよし」と思っているからである。 もう一つは「語り手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。

 

 

たとえ、私の話が耳障りで、「いい加減にしろ」と語るのを制止されても、「私が言いそうなこと」を私に代わって言う人が「いくらでもいる」と思えば、私たちは語り口を限りなく粗雑なものにできる。 語る言葉に論理性がない人、挙証を怠る人、情理を尽くして説得する気のない人は、実は「理論上無限の聴き手に向かって、理論上無限の語り手が語っている」という状況を想定して語っているのである。 自分と同じ意見を述べる人が何十万、何百万人いると思えば、私たちは「説得する」意欲を殺がれる。 私に代わって論理的に語ってくれる人がいるだろう、私に代わって挙証責任を果たしてくれる人がいるだろう、私に代わって聴き手への気遣いを果たしてくれる人がいるだろうと思えば、私たちは自分が語るときにはいくらでも手を抜くことができる。

 

 

ネット上の罵詈雑言を見ればわかるが、威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりする人たちは「自分と意見を同じくする数十万の同意者」の存在を(無根拠に)前提にして、そうしているのである。 どのような意見であれ、それが「圧倒的多数の支持」を勘定に入れたときに、言葉は粗暴になり、空疎になる。 もうその言葉を「それは私の言葉です」といって引き受ける「生身の個人」が存在しなくなるからである。「私が語るのを止めたときに、その言葉も私とともに失われる。だから私は語り止めることができない」 と思っている個人がどこにもいないからである。

 

 

20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。 だが、ある日ことが終わってみると、「その言葉は私自身の言葉です」として引き受ける個人はどこにもいなかった。 「支持者の多い意見は現実的で、支持者の少ない意見は空論的である」という命題は論理的にも、実践的にも正しくない。 支持者が増えるほど「それは私の個人的知見であり、最後のひとりになっても私はその意見を言い続けるつもりである」と言う人の数は減り、言葉の責任をとる気のある人が減るほど、政治的意見は過激で、粗雑で、空疎になる。 民主主義のルールには「少数意見の尊重」というものがある。私はこれはむしろ「多数派が空洞化することのリスク」として理解すべきことではないかと思っている。