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ジョージ・H・カーから観た島の人
2017年03月29日

―身分制度
王府の各種機関で働く者の資格としては通常間切りレベルの監督官に至るまで家族の地位、階級か何らかの功績のある者ということになっていた。ユカッチュ(上流階級)でも資格試験に失敗し、その担当機関における業績のかんばしくない場合は、しばしば王府より遠隔の地にある役所に遣られるか、または階級を下げられることとなった。その家族。一族は代々その地の下級役人としての地位に甘んじることとなるか、ある場合には百姓に身を落とす者さえあった。

 
首里在住で王家の血縁者、家族としての名誉、そして王府在住ということによって自動的に得られる名誉や特権、その伝統といったものは二十世紀に至るまで続いていた。沖縄人同士が島内や日本、あるいは海外の移住地で集まる折には、まず首里生まれなのか、首里で教育を受けたのか、首里出身の者を娶(めと)っているのかによって(そしてその順番で)、沈黙のうちにもすぐさまその人物の「格」が決まってしまっていた。―
(ジョージ・H・カー「沖縄 島人の歴史」山口栄鉄訳、2014年、勉誠出版(株)P216)

 

 

 

人口動態の変容
時代を経るうちに生じた新たな経済状況、人口の分布の変容増加に伴い、旧来の封権制下の土地の区分が崩れ始めた。一四一六年に設置された北山監守の機関が一六六三年には廃止された。新たな間切が作られ、王府のすべてのレベルで新たな役所、機関が設置された。

 

そのころ琉球の人口がどのようなものであったのか、その正確な数字は知るよしもない。概して二十万を越えることはなく、そのうち十二万五000が沖縄島に住んでいたであろうとしてもそれほど大きな間違いはなかろう。後者の数字のうち、その半数以上が首里、那覇、泊、久米に住んでいたであろう。

 

 

十七世紀に至って、農村の人口の様相に急激な変動が起こりはじめた。新しい社会現象が人口動態の新たな要素となって動き始めたのだった。慶長の役よりその直後にかけて、かなりな数の薩摩の男たちが琉球に移り住んできたのだった。彼らは名目上は王府より与えられた形で、土地を確保し、地元の身分の高い琉球人の中から配偶者を迎えた。

 

 

これらの日本国からの新米者には限られた範囲ではあったが、私有地を所有する権限や税制上の有利な権益が認められた。時として己の新たな所有地より上る収入の幾ばくかに与ることが許された。そのような形で早いころに形成された土地構造、少なくともその所有形態のいくつかは今日といえども変わるところがない。十七世紀に土地の所有者となった者が代々その権利を受けついで今日に至っている。

 

 

日本国よりの移住者の子孫は時代を経るうちにその言語、風俗習慣に琉球人のそれと区別がつかなくなっている。代々、琉球土着の者との婚姻の形で同化されてきていることによる。とはいえ、古くからの身分上の違いは二十世紀に至っても消えることなく続いていた。その昔、ヤマトからの特権階級が沖縄で地主としての地位に安住していた昔ながらの伝統、権威の記憶が残存していたのである。

 

 

 

「ユイマール」の精神
この互いに責務を分かち合うとの精神は沖縄の人たちの心意気に深く根付いていった。ある種の経済危機に際し、共同体すべてがその福祉のために責任を分かち合うこと、それこそが社会的義務のありかただとの観念を育んでいったのだった。そのような観念こそが目を見張るような沖縄人同士の救済活動、二十世紀を通じてみられる海外の沖縄人移住地における財政支援態勢、その地の親戚、友人間にみられる活発な相互扶助の動きの背景となっている。
完全な土地の所有が認められなかった農民には割り当てられた量の生産物以上の成果を上げ得たとしてもそれほどの誇りにもならなかった。子孫に残せる土地の確保などまず望みようがなかった。何か独創的な考えで仕事を進められるような刺激にも乏しかった。農民各自の責任感よりは共同体のそれを重視するシステムでは、必然的に彼らを監視する立場のエリート士族階級への重圧となってしまっていた。那覇や首里を中心とする生活を送っていながら、己れの果たすべき任務は島の隅々にまで及ぶ村々にまで及んでいたからだった。ただこのようなシステムであればこそ、首里の士族、下役人、村々の頭目らの間に強い連携意識、相互強調の精神を培うこととしていた。

 

沖縄の農民は共同体のために働くように義務付けられ、またそのように適応させられていた。生まれてから死ぬまで、己れの果たすべき仕事がこまごまと決められていた。大きく自己の権利とか「天賦の権利、権益」といった精神を育むことができなかった。贅沢品といったものはほとんどなかった。また温暖な気候のもとで変化に乏しい農村社会にあっては、そのようなものを必要としてもいなかった。

 

(ジョージ・H・カー「沖縄 島人の歴史」山口栄鉄訳、2014年、勉誠出版(株)P228~230)