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加工 ラオスにおける民事関係法制に関する調査研究 1
2016年04月26日

加工     ラオスにおける民事関係法制に関する調査研究

法務省HPより
松尾 弘(慶應義塾大学)
大川 謙蔵(摂南大学)

平成 27 年 3 月

ラオスにおける民事関係法制に関する調査研究
松尾 弘 *1
大川 謙蔵 *2
〈目次〉

Ⅰ 序論
Ⅱ ラオスの政治・経済・社会

Ⅲ 民事関係法制の概要
Ⅳ 財産法制

Ⅴ 家族法制

Ⅵ 結論
【参考文献・参考情報】

Ⅰ 序論
本調査研究は,ラオス(正式名称は「ラオス人民民主共和国」。以下,ラオスという)における民事関係法制を中心に,ラオスの法制度および法実務の現在の状況を分析するものである。本調査研究は,筆者らがこれまでにラオス,日本等で行った実地調査,インタビュー,資料・文献研究等に基づくものであり,情報の最終時点は,2015 年 2 月 28 日である。
ラオスにおいては,

①仏教の影響を受けた古代法,

②フランスによる植民地時代に導入された近代法,

③1975 年 12 月の王制廃止後に旧ソビエトやベトナムから導入された社会主義法,

④1990 年代から導入された市場経済化を促すための法律と,国外から大きな影響を受けながらも,それをラオス社会に取り込み,独特な形でいわば「ラオス化」することにより,法制度が発展してきた。

ラオスは,現在は社会主義国であるが,1980 年代の後半から市場経済システムの要素を積極的に導入し,アジア諸国の中でも最も急速に,かつ安定的に発展している国の 1 つである。民事関係法制を中心とする法整備は,そうした経済発展を支えるものとしての側面と,そうした現実の変化を反映するものとしての側面をもち,両側面は相互作用の関係にあるとみられる。
以下では,とりわけ目覚ましい経済発展を示すようになった 1990 年代以降におけるラオスの民事関係法制の特色を分析し,今後の法改革の課題を検討し,さらには法整備協力のあり方についても展望する。

Ⅱ ラオスの政治・経済・社会

 

1.政治体制の変遷
ラオスは国土面積約 236,800 ㎢,豊富な水資源,鉱物資源等をもち,潜在的な開発能力は高いものを秘めている。人口は約 658 万人(2013 年),人口成長率 2.2%であり,人口密度は 19 人/㎢にとどまる。宗教は主に仏教であるが,約 50 の民族を擁する多民族国家であり,多数派の低地ラオ族は約 56%にとどまり,丘陵地ラオ族(約 34%),高地ラオ族(約9%)と,文字通りの多民族・多文化社会である。

 

ラオスでは,1353 年にラオ族による統一王朝であるランサーン王国が成立した。しかし,18 世紀に北部のルアンパバーン王国,中部のヴィエンチャン王国,南部のチャンパサック王国に分裂し,シャム(タイ)およびカンボジアによる影響の下で,戦乱が続いた。その後,シャム(タイ)に従属するようになった前記 3 王国は,フランスにより,仏領インドシナ連邦に保護国として編入され(1889 年),フランスの植民地となった 。

 

1945 年 3 月,日本軍の明号作戦により,仏領インドシナ連邦は解体し,同年 4 月,ラオスは日本の協力を受ける形で独立を宣言した。日本の敗戦後,再びフランスの植民地支配の下に置かれたが,仏領インドシナ連邦を復活させようとするフランスに対抗して 1946 年第 1 次インドシナ戦争が勃発し,1949 年,フランス連合内のラオス王国として独立し,1953 年 10 月,フランス・ラオス条約により,完全な独立を果たした。しかし,独立後のラオスでは,右派・左派・中立派による内戦が長期化した。

 

1973 年,アメリカのベトナム撤退を受け,1974 年に右派・左派・中立派の 3 派連合によるラオス民族連合政府が成立,1975 年の南ベトナム崩壊に伴い,同年 12 月,ラオス民族連合政府は王政の廃止とラオス人民民主共和国の樹立を宣言した。それ以来,ラオスでは社会主義政党であるラオス人民革命党による一党支配体制の下で,開発が進められてきた。
ラオス人民革命党は,革命直後の混乱と停滞を経て,1979 年以降は対外開放政策に転換し,1986 年の第 4 回人民革命党大会で「新思想」(チンタナカーン・マイ)・「新制度」(ラボップ・マイ)の導入を決定し,市場経済化を進めてきた。さらに,第 9 回人民革命党大会(2011 年)の決議を遂行するために策定された「第 7 次経済・社会開発 か年計画」(2011~2015 年)は,「政治と治安,社会秩序の安定を厳格に保障する」ことを「総合目標」の 1 つに掲げた。また,「社会分野」の開発方針の中では,司法部門の主要目標の 1 つとして,民法典の編纂を掲げている 5。

 

 
2.経済状況

 
ラオスの主要産業は,2010 年段階では,農業(約 28%),鉱業(約 26%),サービス業(約 39%)である 。また,主要輸出品目は,鉱物,農産物・林産物,縫製品,電力等であり,主要輸入品目は投資関連財,消費財等である 。1 人当たり GDP は,2009 年に 907 ドル,2010年に1,088ドル,2011年に1,204ドルと増大し,経済成長率も,2009年は7.6%,2010 年は 8.1%,2011 年は 8.3%と順調にかつ急速に上昇している 。

 

 

その要因として考えられるのは,

①政治体制が比較的安定しており,経済取引や内外からの投資にとって好まれる安定した環境を提供していること,

②それを受け,実際にタイ,中国,韓国,日本等からの投資が増大していること,また,③国内の資源開発,商品作物等の生産量も増大していることが挙げられる 。
このようにラオス経済は,基本的に国内外からの投資を増大させ,比較的早くから輸出志向型の経済構造を取りつつあるように見える。そして,1990 年代から 2000 年代にかけては比較的安定した政治体制の下で,ゆっくり,着実に成長してきたが,2010 年代からは成長スピードが年々早くなっているように感じられる。
ラオスは 1997 年に ASEAN 加盟,2013 年に WTO 正式加盟を実現し,その準備過程において,銀行制度改革,税制改革,外国投資法の制定,国営企業の民営化等,経済構造を変更する手段として,関連する法整備を比較的早いペースで進めている点に特色がある。

 
3.社会状況
ラオスは,仏教(上座部仏教)の継受を介して,インド,ミャンマー,タイ,中国等の文化的影響を受けつつも,倫理,文学,美術,芸能等の各分野でそれらをラオ語に反映させて取り込み,独自の文化を維持してきた。ラオス人の生活は,一般的に仏教の影響を強く受けており,信心深く,忍耐や受容の倫理を継承している。

ラオスは現在,首都のヴィエンチャン市を含むヴィエンチャン都および 17県(北部 8 県,中部 5 県,南部 4 県)から構成されている。現時点では社会主義による中央集権的体制の下で開発政策が推進される中,地方議会は存在せず,地方自治は将来的な課題として残されている。ラオスでは,かつて「各級人民議会及び人民行政委員会組織法」(1978 年 7 月30 日)により,県・郡・区の各レベルに地方人民議会が置かれたが,その後地方議会選挙は実施されない一方で,中央政府が地方行政委員を任命して地方統治を行ったために,地方人民議会も地方行政委員会も法令が目標としたようには機能せず,1991 年憲法によって地方人民議会も地方行政委員会も廃止された。

 

 

 

その結果,地方の代表および意思決定機関は地方党委員会に一元化されることになった。その後,地方に対する権限移譲政策が行われ,県知事に権限が集中したが,これを監督する制度が不十分で,汚職が問題になった。これを監督すべく,地方人民議会を設置して地方行政機関を監督することが検討されたが,2009 年に設置が見送られた。このように今なお政府がラオス全土と人民を十全に掌握し,かつ地方の住民の意思を反映できる統治システムを構築しているとはいえない段階にあり,集権化と民主化の推進は重要な開発課題である 。

 

 
すみれ
「北海道くらいの規模かな。」

 

 

 
そうした社会状況の中で,ラオス社会の特色として看過できないのは,伝統的な村落の重要性である。ラオ人は伝統的にメコン川に沿った地域に北から南へと分散居住し,各地に村落を形成してきた。そうした小規模の村落が分立していたことも,隣国のタイ,カンボジア,ミャンマーや,外国勢力に対して劣勢を余儀なくされた原因でもあった。しかし,その反面,各々の村落には,一方で世俗の代表としての村長(ナイバーン)が共同作業の指揮やもめ事の解決等を行い,他方で寺院の僧侶やプー・ター神等の小祠の霊媒が農耕儀礼,村人の悩み事相談等を受け,包括的な生活規範を醸成していた。村落は自給自足的な農作業や宗教行事における共同作業を通じて,実質的な共同体を形成した。そうした自律的な小宇宙の中で,村落はより大規模な地域の政治勢力に関わりをもつことなく,村の範囲を相互に越えることなしに,共存し続けてきた 。 そうした村落の伝統は,現代のラオスにもなお根強く存続しているように思われる。この点については,各地の村落についての調査研究を蓄積してゆく必要があるが,その 1 例として,本調査研究では,ルアンパバーン県のパク・ウ村の村落における聴取調査の概要を記しておきたい 。

 

 

 

パク・ウ村は,世帯数 94 戸,人口 474 人の地域コミュニティである。村の意思決定は,村委員会(村長,副村長,村の女性同盟・青年同盟・公安組織の各代表者等から構成される)が行っている。また,意思決定すべき問題によっては,必要に応じ,郡の役所,女性同盟(女性問題等について),が意思決定を支援することもある。
村委員会の構成員は,選挙によって選出され,任期は 3 年~5 年である。この選挙には,郡役所も協力している。選挙に際しては候補者リストが作成される。そのために,まず現職を記載したリストを作成し,ついで,自薦他薦により,リストに名前が付加する方法が取られている。18 歳以上の住民が選挙権をもつ。

パク・ウ村は 5 つのグループに分かれており,各グループにはリーダーがいる。この 5 グループおよび各グループに属する全世帯主の名前が,村の集会所の黒板にチョークで記されており,一目瞭然である(加除・修正も容易である)。

 

 
出生・死亡は,村委員会に申告し,登録される。村委員会は,それを複数の村が集まった区に報告することになっている。
契約に基づく土地の売買等の権利移転の登記についても,村委員会(村長)が契約の真性を証明し(村長が契約書に署名する),その旨の証明書を発行することになっている。土地取引の当事者はこの証明書をもって郡の土地登記局に出頭し,登記することになっている。

 

 

 
番人
「村長が公証人のような役割をしているのかな。」

 

 

 
土地にかかる税(土地の利用目的によって異なる)は,区の役人が村に来て計算して請求する。村の構成員は,村委員会に支払い,村が取りまとめて区に引き渡す方法がとられている。これは村の連帯責任にも通じる制度であると考えられる。
村長の報酬は毎月約 150,000 キープ(約 1500 円),副村長の報酬は毎月約 100,000 キープ(約 1000 円)である。村長はそれだけでは生活できないから,レストランの経営を本業としている。副村長の本業は農業であるとのことであった。村には公安組織があり(警察とは異なる),12 人がそれに属し,スケジュールを作成して24 時間体制で警備を行っている。公安組織の事務所はなく,村の入口に待機しつつ,時折見回りを行っている。

村には特別の役場はなく,簡易な作りの集会所が実質的に役場に当たる。村委員会の会議もここで開かれている(集会所が立てられる前は,付近の寺を使用していた。また,集会所に収容し切れないときも,寺で集会を開いている)。

村落が伝統的に果たしてきた重要な機能として,村落調停がある 。村落調停における紛争の実際例としては,

 

①一般的問題として,自宅の庭に他人の鶏が侵入して糞をすることで迷惑を被っているという主張をめぐる紛争,隣家の屋根が長過ぎて,自分の家の庭に雨が落ちて迷惑であるという主張をめぐる紛争,子ども同士が一緒に遊んでいて喧嘩をしたという主張をめぐる紛争,②家族関係の問題として,夫が他県(市)で仕事をしていてなかなか帰って来ないという主張をめぐる紛争,⑤刑事に関わる問題として,窃盗(鶏を盗んだ等)をめぐる紛争等が典型的である。
調停は,紛争当事者が村落調停委員会に村落調停を申し立てることによって開始される 。
村落調停ユニットが調停を行うが,そのメンバーは首相令に基づき,選挙により,その結果に従って区の長が任命する。同メンバーは,教育を受けて知識がある人が選ばれるものとされているが,実際には青年同盟・女性同盟・長老グループ・公安組織等の各代表者が選ばれている。村落調停ユニットのメンバーには任期がない。自ら辞任することはできるが,その場合には後任を選ぶ必要があるものとされている。なお,村長はメンバーにはなれず,通常は副村長が村落調停ユニットのリーダーを兼ねることが多い。村人は,同メンバーは経験が重要であること,尊敬できる者がメンバーになる必要があること等により,同メンバーが交替することに対しては一般的に消極的であるとされている。同メンバーに対しては,日当等の支払はない。
この村落調停は,前記首相令に基づくものとしては,2003 年から行われているが ,パク・ウ村は 2011 年から「紛争のない村」(Case Free Village)として認定され,表彰されている 。この認定(表彰)制度が整備されたことにより,事件自体が減ったとされている。
実際,パク・ウ村では,調停不能となって裁判所に移管された事件はないとされている。 調停費用に関しては,通常は費用はかからない。例外的に,区の役人や他の村人に来てもらう必要があるような事件の場合には,その費用として 5 万~20 万キープ程度かかる。 調停に要する時間に関しては,最長で調停を 3 回実施し,7 日間かかった例がある。通常は,2,3 回であるとされる。
村落調停の手続に関しては,①まずは 5 つあるグループの各リーダーが相談を受け,解決を提案する。また,複数のグループに関わる問題は,関連するグループのリーダー同士が話し合う。②それでも解決しないときは村長に相談する。③村長に相談しても解決しないときに初めて村落調停委員会が開かれる。
村落調停ユニットのメンバーの教育に関しては,過去の先例を用いた自己研鑚のほか,司法局の役人が時折村に来て,セミナー等を実施する。各村が 1 年に 2 回のワークショップを受けることができるとされている。
もっとも,パク・ウ村では,2003 年から調査時点までに 2 件しか調停は実施されていない。1 件は子どもによる金銭の窃盗,もう 1 件は離婚問題であった。最後のケースは 2005 年の離婚事件である。

調停に際しては記録を取り,保管している。当事者にも,調停の結果を記録したもののコピーを渡している。
以上のように,伝統的な村落調停は,現在では国家制度に取り込まれつつも,基本的にはその機能を維持しているとみることができる 。